3.11当時の事をかたってみる

どうもみなさんこんにちは!すがいです。

今日は3月11日ですね。震災から6年。

当時は仕事をしていたのですが鮮明に覚えています。2時46分に東京では震度5強。立って仕事をしていると震度3くらいだと気づかない人がいるくらいなんですけど経験のない揺れを体感したのを覚えています。

その時はシャンプー中の方がびっくりして飛び起き外に逃げ出したり、物が落ちたり大変でした。でも、ここまでの大事になるとはちっとも思いませんでした。

ネットで震度7という情報はあったのですが、考えが甘かったですね。

その時はぼくはバイクで通勤していたのですが普段30分で帰れる道のりが2時間かかりました。人、車、バイク、自転車、警察が多すぎて。
放送で計画停電なんやら流れててなんだそれ?状態。家に帰ってテレビをつけて衝撃をうけました。
いまでもほんとに鮮明に覚えています。
津波、地震、東北の情報。

え?これ日本?映画だよね?本気でおもいました。原爆がヤバイらしい。

でもどうせ大袈裟にいってるんでしょ?

後日、メルトダウンのニュース。

東北大丈夫か?
ってみんな考えておりました。

3.12になり、店の予約を一度すべてキャンセルの電話をいれ、
計画停電が始まりましたのでその時間帯は予約をきり、待機。

つねにいつでも逃げ出せる準備。
よるは計画停電予定時間は帰る準備をして待機。
今でも大きめの地震きたら冷静に自動ドアあけれます。教訓。
その時期東京はガソリンはない。
水は売ってない。
食料はスカスカ。
場所によっては停電。
まぁその程度です。

でもお客様にスーパーで働いている方がいて話を伺ったのですが、仕入れは通常通りだったらしいですね。

なぜ売り物の陳列がないかというとまとめ買いの方が沢山いたらしいです。
なんだかね。
その時はテレビで東北のニュースがずっと放送し、状態を知り、自分に何かできないか、みんな考えていましたね。

その時は金もないし、ペーペーだったのでボランティアに行けない自分が悔しかったです。

出来ることは募金くらいでした。
実家が栃木で6強を計測したんです。その時はマジで焦りました。電話しても繋がらない。メールは送信出来ない。バイクで帰ろうかと思いましたね笑

実家は瓦が落ちたり物が乱雑したりくらいで無事だったので本当によかったのですが栃木は風評被害で大変でした。

観光名所の日光とか人がガラガラだったみたいです。今は沢山の方が来て頂いてるみたいで嬉しいです。

今の生活を取り戻したのはどれくらいかかったかな?
計画停電期間中は店舗の電気は半分以下にしていましたし、もちろん朝練夜練は無しになりました。
しょうがないのは勿論理解してましたが勉強が出来ないのは、くやしかったですね。

多分1年くらいはかかったとおもいます。

本当に

『混乱』

その言葉がぴったりです。

震度4とか5は普通でしたからね!

考えられますか??
震度5が計測されても

またか。

って思ってしまう。

常に揺れている感覚。東京でもその感覚でした。

お客様でも東北から一時避難されて来られたお客様がいらっしゃいましたね。

話を伺って悲しい気持ちになりました。
なぜかって?

東北からきたから偏見やイジメがあるらしいです。

ほんとうに言葉を失いましたね。
3.11は風化させてはダメですね。

いま、Yahooの検索で

『3.11』を検索したら10円募金出来るらしいです。

 

検索するだけなので是非やりましょう。
では!

重たい内容ですみません。